LOGIN「――ここで無様な結果を出せば、いよいよ退学勧告が現実味を帯びてくると思え!」
鬼瓦教官の宣告が、朝のホームルームの空気を一気に凍てつかせた。最初の本格的な模擬事件演習――序列最下位の『ラストホープ』にとっては、崖っぷちで踏みとどまるか、滑り落ちるかの分水嶺である。 教室前方、序列上位の生徒たちが座る一角からは、「ようやく腕試しができるな」「ポイントを稼ぐチャンスだ」といった自信に満ちた囁きが波紋のように広がる。 とりわけ序列一位『プロミネンス』の神楽坂は、口角をわずかに上げて余裕を見せ、隣の|西園寺玲華《さいおんじ れいか》は優雅に微笑み、|轟周平《とどろき しゅうへい》は微動だにしない。 彼らにとって演習は、実力を改めて証明するための通過儀礼にすぎないのだ。 一方、教室後方の最下位席に集う三人――猛、青野、白河――の周囲には重たい気配が降りていた。もっとも、その重さの中身は同じではない。 猛は緊張よりも闘志が先に立ち、鬱憤を晴らす好機だと拳を握る。身体能力で他を黙らせる、その場面を頭の中で何度も反芻していた。 青野はリスクとリターンを秤にかける。やり方次第で一気に序列を押し上げられるが、鍵は連携にある――猛の突進力を制御し、白河の知を最大化し、自分は要として話を回す。その算段を静かに組み上げる。 白河は顔面蒼白のまま、ただその言葉の中に『謎』があることだけを確かに感じ取っていた。本物ではない――演習だ。だが、解くべき問題があるなら向き合えるかもしれない、という微かな好奇心が瞳に灯る。 鬼瓦は各々の表情をざっと撫で、畳みかける。 「今回の演習の舞台は、第一美術室だ。課題は、美術室内で発生したとされる『盗難事件』の解決。制限時間は六十分! 盗まれたとされる美術品一点と、犯人役を務める上級生一名を特定し、確保すること!」 美術室、盗難、六十分――具体が与えられると、教室の空気が緊張にきしむ。 「評価基準は、第一に解決までのスピード。第二に推理の正確性、証拠の確保状況。そして、チームワークだ。単独でのスタンドプレーは評価せん。いかにチームとして機能したかが重要となる。言うまでもなく、結果は序列ポイントに大きく影響する!」 鬼瓦は言葉を切り、鋭い視線で全体を掃いた。 「いいか、これはあくまで『演習』だ。だが想定は現実だ。超常現象やオカルトの類は一切ない。必要な手がかりは、すべて現場、あるいは関係者の証言の中に隠れている。観察と洞察、そして論理に基づいた推理で真実にたどり着け。健闘を祈る!」 それは力ずくの近道を戒め、公正な手続きと論理を尊ぶこの学園の姿勢を、暗に生徒へ刻みつける宣言でもあった。 * * * ホームルームが終わり、演習開始までの短い自由時間が与えられると、『ラストホープ』の三人は教室の隅に自然と集まった。 「聞いたか! 美術室だってよ! なんか面白そうじゃねえか!」 猛が昂ぶりを隠さず言い放つ。彼にとって勢いは武器だが、チームにとっては制御すべき推進力でもある。 「ええ。ですが美術室ということは、現場はかなり広く、隠し場所も多い。美術品や画材など、手がかりに見える物も多すぎるはずです。偽の手がかりに惑わされない注意深さが要りますね」 青野は即座に地図を思い描くように要点を並べる。 「……偽の……手がかり……」 白河は小さく反芻する。頭の中ではすでに複数のシナリオが立ち上がり、排除の順序と確認すべき観点が並び始めていた。 「よし! とりあえず作戦会議だ! まずは俺が現場に突っ込んで、怪しい奴を締め上げ――」 「赤星くん、それは作戦とは言いません。ただの蛮行です」 青野は肩をすくめる。突撃は終盤の切り札であって、導入ではない。 「なんだと!?」 「最優先は状況把握。僕が関係者から話を聞き、白河さんが現場に残された情報を分析する。赤星くんには――そうですね、体力勝負になった時の切り札として待機してもらいましょう」 「待機だと!? ふざけんな!」 熱と理がぶつかる。三人はそれぞれ強力な武器を持つが、合成して一つの鋭い矢にする方法はまだ模索中だ。 「……あの……」 白河がおずおずと口を開いた。恐れと興味が拮抗するとき、興味がかろうじて勝った合図だ。 「現場……美術室の……見取り図とか、過去の……使用状況とか……事前に……調べられませんか……?」 「――なるほど。良い着眼点ですね、白河さん!」 青野は即答で拾い上げ、提案を次の手順に格上げする。 「データベースにアクセスできれば何か分かるはずです。……もっとも、最下位チームの権限でどこまで見られるかは不明ですが」 「よし、じゃあ図書館行くぞ!」 猛はすぐ動こうとする。だが、演習開始までの時計は残酷で、手元の時間はもうわずかしか残されていなかった。 * * * 結局、具体的な作戦の骨組みを作りきれないまま、開始時刻が迫る。廊下に出れば、各チームが第一美術室へ向かって列を成していた。 上位チームの足取りは自信の速さで、彼らは『ラストホープ』を視界の端の雑音のように扱う。 すれ違いざま、プロミネンスの神楽坂が一瞥だけを投げる。その目は嘲りというより、勝敗が既定であることへの退屈さを映していた。西園寺と轟は前だけを見る。強者の無関心は、ときに軽蔑より鋭い。 その視線に、猛は闘志をさらに燃やした。見返してやる――その一念が、彼の背筋をまっすぐにする。 青野は口元に薄い笑みを浮かべる。これから始まるのは潰し合いではなく検証だ。自分たちの強みも相手の穴も、同じ盤上で露わになる――そう見ている。 白河はタブレット端末をぎゅっと胸に抱え、半歩遅れて歩き出した。やれることをやるしかない、と小さく覚悟を定める。その歩幅は小さいが、戻らない。 目指すは第一美術室。最初の試練の舞台が扉の向こうで待っている。 落ちこぼれチーム『ラストホープ』は、この機会を掴み取り、序列の壁に最初の指をかけられるのか。運命の演習開始は、もう目の前だった。海は陽光を砕いてきらめき、サンシャインフラワー号は、ゆっくりと陸の匂いを振り落としていった。 カフェスペースの窓際で向かい合う猛と西園寺の間には、さっきまでの鋭い言葉の応酬が嘘みたいに、わずかな落ち着きが漂い始めていた。 猛は、ストローで氷をつつきながら、窓の外に目をやった。島が近づくのはまだ先だ。それでも船のエンジン音と、床から伝わる微かな振動が、確実に前へ進んでいることを告げる。「……でさ、お嬢」 つい、口が滑った。 西園寺の目が、ぴくりと吊り上がる。反射だけで殺せる勢いだ。「……その呼び方、まだ続けますの?」「いや、ほら、なんか――」 猛が言い訳を探している、そのときだった。 どっと、空気が変わった。 通路の奥から、車輪の転がる音、笑い声、誰かが「重っ!」と叫ぶ声が一気に押し寄せてきた。船内の静けさを突き破るような、若い熱量の塊。カフェスペースの客が一斉にそちらへ視線を向ける。 現れたのは大学生らしき五人組だった。軽装なのに荷物だけが異様に本格的で、ケース、ケース、またケース。ギターケースの細長い背中、丸いドラムケース、そして人一人入るんじゃないかというほど巨大なキーボードケースまである。 彼らは、まるでこの船をステージの控室と勘違いしているかのように、遠慮なく賑やかだった。「ったく、誰だよこんな早朝の便にしたの。眠いって言ったよな俺?」 先頭にいた男――音羽響――が、わざとらしくため息をつき、周囲に聞こえる声で言った。髪はやや明るく、服装はシンプルなのに、動きと態度が妙に派手だ。「便は早い方がスタジオ借りられるんだよ。合宿先、機材の搬入もあるし」 音羽の斜め後ろで、落ち着いた声が返った。細身の男――調辺律――が、手帳とスマホを見比べながら話している。 視線がいつも計算しているように動き、声には癖がない。周囲に合わせているようで、自分のペースを崩さない。「ねえねえ、聞いて聞いて! 船の揺れでさ、ド
七月下旬。梅雨の湿り気は抜けたはずなのに、不知火探偵学園の空気にはまだ、張り詰めた余韻が残っていた。 期末考査の結果は夏季休暇明けに発表――その一言が、解放感の裏に小さな棘を残している。 だが、暦の上では夏休みだ。 猛は、寮の廊下を大きな荷物を抱えて歩きながら、肩に食い込むベルトをぐいと持ち上げた。ボストンバッグにリュック、さらに手提げ。 学園生活で増えた道具と、島に持ち帰る土産めいたものが詰まっている。汗が首筋を伝い、シャツが背に貼り付く。 それでも足取りは軽かった。 実家は離島。帰省は年に数回、長距離フェリーに揺られての移動が、彼にとっての夏の始まりだ。潮の匂い、鉄の響き、海鳥の鳴き声。学園の息苦しさが、海風に削られていく気がする。 港に着くと、白い船体が陽光を受けて眩しかった。側面に大きく書かれた船名――『サンシャインフラワー号』。派手な名前にしては、どこか実直な厚みのある船だ。車両甲板へ吸い込まれていくトラックのエンジン音が腹の底に響き、出航前のざわめきが港の熱気に混ざっている。 猛は乗り場の案内板を見上げ、指定された列に並び、チケットを出し、流れに乗ってタラップを上がった。 午前九時。乗船完了。 通路には冷房の乾いた空気が満ち、外の熱が嘘みたいに引いていく。猛は一度、窓際に立って港を眺めた。まだ船は動かない。なのに、甲板のどこかで鳴る金属音だけで、もう遠くへ行き始めている気分になる。 そして――低い汽笛。 胸が軽く鳴った。出航だ。 船が岸壁から離れる感覚は、地面の上とは違う。微かな揺れが膝に伝わり、窓の外の景色が、ゆっくりと後ろへ流れ始める。猛は荷物を肩から下ろし、客室フロアへ向かった。席で少し寝るか、売店で何か買うか。夏休み初日の予定は、それだけで十分だった。 ……そのはずだった。 船内のカフェスペースに差しかかったとき、猛は思わず足を止めた。 人混みの向こう、窓際の席に――見覚えのある顔があったからだ。 華や
『――これにて、一泊二日の実地調査演習を終了する!』 鬼瓦教官の演習終了を告げる声が演習用デバイスから響き渡ると、張り詰めていた食堂の空気が、ふっと緩んだ。 猛、青野、白河の三人は互いの顔を見合わせ、安堵と達成感の入り混じった息を深く吐いた。疲労はピークに達している。 だがそれ以上に、閉ざされた館で成立していた密室殺人の謎を解き明かしたという充足感が、三人の全身を温かく満たしていた。 やがて管理人や滞在者たちは、役目を終えた者らしい軽い解放感を滲ませた表情へと切り替わっていく。彼らもまた不知火探偵学園の卒業生であり、今回は演者として協力してくれていたのだと、三人はここで改めて理解する。「やれやれ、終わったか」「お見事だったね、ラストホープ」 そんな声が、先ほどまでの殺伐としたやりとりが嘘のように柔らかく響く。 管理人役を務めていた黒田も厳格な表情をわずかに緩め、三人へ歩み寄った。「まずは、ご苦労だった、ラストホープの諸君」 黒田は重々しい口調で切り出す。「今回の演習、貴様らは見事に真相にたどり着いた。評価としては……まあ、及第点といったところだろう」 その言葉を聞いた瞬間、猛の胸には小さな不満が跳ねた。あれだけ走り回り、煤と埃にまみれ、追い詰めて得た結末が及第点という言い方で片付けられるのは、どうにもむず痒い。 とはいえ、厳格な先輩からの評価としては、むしろ上等なのかもしれないとも思い直す。自分の中にそんな冷静さが生まれていることに、猛自身が少し驚いていた。「だが、課題も多い」 黒田は容赦なく続けた。「特にチーム内での情報共有の速度や仮説構築の柔軟性に関してはまだまだ改善の余地がある。今回の経験を糧に、さらなる精進を期待する」 厳しい指摘は、同時に期待の表れにも聞こえた。最下位の三人を伸びしろがある対象として扱っている――それだけで、白河の胸には小さな火が灯る。 青野は、黒田の言葉を淡々と受け止めながら
決定的証拠になり得るタバコの吸い殻を手に、ラストホープの三人は埃っぽい隠し通路を後にし、再び一階の食堂へと向かった。疲労の色は濃い。 それでも、真相へ手が届いたという確信と、最後の局面へ踏み込む緊張が、三人の足取りを確かに前へ押し出していた。 食堂には、管理人の黒田と、他の滞在者――鷹宮、綾小路、久我――が集められていた。重苦しい沈黙の中、三人を迎えた視線はそれぞれ異なる。 綾小路は怯えを隠しきれず、久我は沈痛さの奥に警戒を滲ませ、鷹宮は表情を整えたまま、こちらの出方を測るように静かに見据えている。「皆さん、お集まりいただきありがとうございます」 青野が場の中心に進み出て、落ち着いた声で切り出した。取り乱しのない口調は、ここまで積み上げてきた推理に自信がある証でもあった。「皆さんにお集まりいただいたのは他でもありません。財前様殺害事件を引き起こした犯人がわかりましたので、我々の見解を説明させていただきます」 その一言で、食堂の空気が張りつめる。誰もが息を潜め、青野の次の言葉を待った。「まず、事件現場となった書斎の状況です。ドアには鍵と閂、窓にも内側から鍵がかかっており、一見すると完全な密室でした。しかし――」 青野は、あたかも暖炉の向こうを示すように片手を動かした。「我々の調査の結果、書斎には設計図にも記されていない『隠し通路』が存在することが判明しました。暖炉の奥が回転扉になっており、隣接する使われていない和室へと繋がっていたのです」「隠し通路だと!?」「そんなものが、この館に……?」 綾小路と久我が声を上げる。驚きは純度の違いこそあれ本物だった。鷹宮だけが目元をわずかに細め、反応を最小限に抑えたまま聞き役に徹している。「犯人は財前様を殺害後、この隠し通路を利用して書斎から脱出し、密室を偽装したのです。そして、その通路の存在を隠蔽するために、我々にある工作を行いました」 青野の視線が、まっすぐ鷹宮へ向く。「我々が館の設計図の提供をお願いし
目の前に開かれた、暗く未知の通路――それは、この『黒百合邸』に隠された秘密であり、財前殺害の密室トリックを解く鍵でもあった。 猛、青野、白河の三人は、ごくりと息をのみ、その暗闇の先を固く見つめていた。 青野は腕時計に視線を落とす。画面に表示された残り時間を見て、内心で冷静に計算を始めた。制限時間まで、あと二時間ほど。 通路の調査、犯人の特定、推理の構成――やるべきことはまだ多く、余裕などないと理解している。だからこそ、ここで足踏みするわけにはいかなかった。「よし、俺が先に行く!」 焦りよりも前に、身体が反応したのは猛だった。決意を固めた彼は、ペンライトを握りしめると、ほとんどためらいも見せず、その狭い通路へと足を踏み入れる。「お前らも気をつけろよ!」「ええ、もちろんです」「……はい」 二人の返事を背に受けながら、猛が先頭を行き、青野と白河が後に続いた。 通路の中は、想像以上に狭く、そして埃っぽい。大人が一人、肩をすぼめてようやく通れるほどの幅しかない。壁は古びた木の板で覆われ、床には長年の埃が厚く積もっている。 鼻腔を刺すのは、かび臭さと古い家特有の湿気を帯びた匂い。頼りになるのは、手にしたライトの心許ない光だけだ。「うおっ、危ねぇ! 急な段差だな!」 先頭を進んでいた猛が、足元の段差に取られて危うく転げそうになる。暗闇のせいもあるが、そもそも慎重に歩くことが得意な性格ではない。「赤星くん、あまり派手に動かないでください。痕跡が消えてしまいます」 青野が、いつもの落ち着いた声で制した。彼の頭の中では、この通路が『犯人の通り道』である可能性が高い以上、床や壁に残った微かな情報を失うことは致命的になりかねない、という判断が働いている。 一方、最後尾の白河は、静かな緊張の中で視線を床に這わせていた。ライトを滑らせながら、壁や床、板の隙間、埃の積もり方を一つ一つ確かめていく。 彼女は、通路が頻繁に使われてきたものではないが、今回
「我々の次のターゲットは――あの暖炉です! そこに、この密室を解く鍵が隠されているはずです!」 青野の力強い宣言を受け、ラストホープの三人は書斎の奥、重厚な存在感を放つ古い暖炉の前に集まった。 長い間使われていないのか、炉床には灰が薄く積もり、石組みの隙間には煤がこびりついている。鼻をくすぐるのは、古い煙と埃の入り混じった、どこか湿った匂い。 ぱっと見た限りでは、ここはただの古風な暖炉にしか見えない。「白河さんの分析通りなら、この暖炉周辺に、設計図にはない秘密が隠されているはずです。徹底的に調べましょう」 青野が改めて指示を出す。 白河は無言で頷き、タブレット端末を片手に、現物の暖炉と、先ほど取り込んだ図面データを交互に見比べ始めた。 視線はミリ単位でレンガの段差や目地の幅を追い、指先でそっと煤を払っては、実際の寸法と図面上の数字を頭の中で照合していく。 彼女は、レンガの積み方の中に、ひときわ違和感のある一角を見つけていた。そこだけ目地のセメントの色が、他より僅かに新しい。 さらに、暖炉内部に手を入れた際の距離感から、図面に記された奥行きより、実際の奥行きが浅いのではないかと推測する。 つまり、この奥には何かが埋め込まれているか、隠されている可能性が高い――彼女の分析はその方向に収束しつつあった。「よし、物理的な調査は俺に任せろ!」 猛は手袋をきゅっとはめ直すと、躊躇なく暖炉の中へ身を潜り込ませた。煤で顔や服が汚れることなど、彼にとっては取るに足らない問題だ。「うわっ、中は結構広いな……って言っても、人が隠れられるほどじゃねえか。奥は……壁だな」 ペンライトで内部を照らしながら、壁や床を手で押し、擦り、叩く。 やがて、ゴンゴン、と鈍い音が書斎の中に響き始めた。「ん……? ここと……こっちじゃ、音が違うぞ!」 猛は、暖炉の奥、向かって右側の壁を指さした。「こっちは詰まった音がするけど、こっちは……なんかポコ